「外部の身体化」
2012-05-31


「身体の外部化」という言葉に出会ったのはいつの頃でしょう、30年近く経つと思いますが、身の回りの道具類は体の機能を外部化したものであるというシンプルな思想で、なるほどと思いました。例えばハードディスクは記憶の外部装置と言えますね。
(哲学的な本来の文脈からは乖離しているのかも知れませんが)ある機器の機能を、人の行為の外部化したものとして捉えることは、デザインにおいても有効なアプローチです。
この「道具と身体の関係」をシステムや知性においても応用されているようです。

しかし実際の道具を考えますと、身体を機能拡張したようなものもあります。例えばバットは、始めから木の棒がなければ存在しない行為(=打つ)ための道具です。
これを「ものを壊す事を外部化した」と言うと「始めから棒状のもので壊す事を知っていてそれを道具化した」との含意があるように感じます。
木の棒を持ち、触ったり振り回したりする事で「打つ」という行為を発見(もしくは開発)した、と考える方が自然なのではと思いますと、道具によって行為が成立し、「体の機能が拡張された」という方が(回りくどいですが)しっくりきます。

この「拡張身体」は、優れた運動選手や職人の道具に感じている「体の一部」という感覚を表しているように思います。

であるならば、、「道具とは外部を身体化したものである」といえるのではないか、、そう思っています。
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